大谷吉継と石田三成との関係は?名言・逸話は?

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戦国武将の大谷吉継は豊臣秀吉、徳川家康そして、石田三成も認めた才覚の持ち主だった。
その、大谷吉継の名言、逸話はどんなものだったのでしょうか?

今回は大谷吉継についてお話しします。

最後までご覧ください。

大谷吉継の紹介

生誕:永禄2年または永禄8年(1559年または1565年)/

死没:慶長5年9月15日(1600年10月21日)

主君:「六角」➡ 豊臣秀吉 ➡ 秀頼

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大谷吉継は豊臣秀吉の家臣で越前敦賀城藩主(現在の福井県敦賀市)でした。
ハンセン病を患い、晩年は頭を白い頭巾で隠してたと言われています。

天正の初めに小姓として秀吉に仕えました。
馬廻として活躍していました。馬廻とは騎馬の武士で大将の馬のそばに付き添って伝令や護衛
また、決戦兵力の役目を果たしていました。

天正13年に大坂で千人斬というすじ斬が起こり、その犯人が吉継だと噂されていました。
しかし、秀吉はその噂は一切信用せず重用しました。
(千人斬の真相は記録がないため不明です。)

大谷吉継に対する秀吉の評価は「大谷紀之介(吉継)に100万の軍勢を与えて、自由に軍配を指揮させたい」と言わせるほどの才覚の持ち主でした。

吉継と徳川家康の関係は、当初は親しい関係であった様であの関ケ原では家康派だったとの話もあります。家康も非常に吉継の才能を高く評価していて慶長5年(1600年)7月、
会津征伐が終わり次第12万石に加増すると約束したと言われているが・・・
吉継が西軍に与したと知った家康は狼狽えたとの逸話があります。

石田三成と吉継の間には深い友情がありました。その友情が関ケ原に影響しました。

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➡ こちら

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大谷吉継の名言・格言紹介

1:金のみで人は動くにあらず。

2:人面獣心になり、三年の間に祟りをなさん

辞世の句

契りあらば六の巷にまてしばし おくれ先立つ事はありとも

大谷吉継のまとめ

戦国武将の大谷吉継は心底豊臣秀吉に仕えていました。関ケ原以前に徳川家康と出会っているので、家康の才覚は当然知っていたと思います。家康も吉継の才覚も知っていたと思います。
関ケ原で三成と家康のどちらが勝利するのも知っていたのではないでしょうか?

ですが、秀吉の恩義、三成との刎頸の友だったので、負け戦と知りながら三成と一緒に家康に
戦いを挑んだのでしょうか・・・。

大谷吉継の一本筋の通った生き方には男気を感じることが出来ました。

最後まで読んで頂きありがとうございます。

次回、お楽しみに!!

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