石田三成の名言・逸話からイメージが変わった!?

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石田三成と言えば関ケ原の戦いを思い浮かべますよね?秀吉に認められようと周囲の事も考えない自己中心の性格だと思っている人が多くいるのではないでしょうか?
私もその一人でしたが、石田三成の名言や逸話でイメージが変わりました。

今回は石田三成のお話をします。

石田三成の紹介

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生誕:永禄3年(1560年)/死没:慶長5年10月1日(1600年11月6日)
主君:豊臣秀吉 ➡ 秀頼

石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)に生まれるれ羽柴秀吉(豊臣秀吉)に小姓として仕える。
天正10年6月(1582年)本能寺の変により織田信長が横死し、秀吉が動き天下を治めると次第に三成も頭角を現してきた。
三成は豊臣政権を支え、秀吉の死後、豊臣家は秀頼が家督を継ぎ三成は秀頼に仕えた。

また、徳川家康と同じぐらいの勢力を持っていた前田利家が死亡した後、徳川家康が台頭してきた。いよいよ、徳川家康動き出し天下分かれ目の関ヶ原の戦いへと時代が動きます。

 石田三成の人物像

石田三成は豊臣政権の五奉行の中でも実力者であった、上杉、毛利、島津の大大名が秀吉への取り成しも全て三成が行っていた。
(五奉行は司法担当:浅野長政、行政担当:石田三成、土木担当:増田長盛、財政担当:長束正家、宗教担当:前田玄似の五名で構成されていた。)

石田三成は人の気持ちが分かるのではという逸話があります

【三杯のお茶】

鷹狩りに行った秀吉が喉が渇き立ち寄った観音寺での出来事ですが、その寺小姓が最初の一杯目のお茶は大きな茶碗でぬるめのお茶を、2杯目のお茶は最初の茶碗より小さめの茶碗でやや熱めのお茶を、そして三杯目のお茶は小ぶりの茶碗で熱いお茶を差し出しました。
その、心遣いに秀吉が感じ入り自分の家臣に迎えいれた人物こそが、石田三成だったのです。

【大谷吉継との出来事】

三成と大谷吉継は大の親友関係である日、秀吉の茶会での出来事で一口づつお茶を飲み回し飲みがあり、吉継の順番でお茶を飲むふりをして次に回そうとしました時、吉継はらい病を患っていた為に膿が茶碗に落ち、後の諸大名は飲むふりをして回していたが、三成は躊躇なくそのお茶を飲み干してしまいます。
その気遣いで更に二人の関係は深まったのです。

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石田三成の名言・格言紹介

燕雀いくずんぞ鴻鵠の志を知らんや

戦死を好むのは匹夫である。将たる者は命の危険を逃れて何度も戦いを重ねるこそが本意とするものだ。

残すは盗なり。使い過ごして借銭するは愚人でなり。

石田三成のまとめ

石田三成という人物のイメージが少し変わりました、三成は実力者で人の気持ちが分からない自己中心ではないかと思いましたが、三杯のお茶の話や
大谷吉継の話などで少し見方が変わりました。但し、三杯のお茶は創作ではないかと言われていますが・・・。
心遣いが強すぎて、周囲の反発をかったのではと思う事があります。それは、三成の検地の業績を認めた秀吉が三成に九州に33万石を与えようとしましたが三成が九州の大名になり大坂を離れると行政を担当する者がいなくなり国政に支障が出るという理由から断ったのです。周囲の者でその行動を面白くないと思う大名はいたのではないでしょうか?

三成の考えや行動で今まで聞いていたことが少し違う事もありましたので、機会がありましたらお伝えしたいと思います。

最後まで読んで頂きありがとうございます。

次回、お楽しみ!!

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