蒲生氏郷と言えば兜が有名でしょう!!「鯰尾兜」奇抜な形です。
また、蒲生氏郷は家臣から慕わられていました。
その人物像を名言・格言から見ていきましょう。
今回は蒲生氏郷についてお話します。
蒲生氏郷の紹介
生誕:弘治2年(1556年)/死没:文禄4年2月7日(1595年3月17日)
君主:織田信長 ➡ 豊臣秀吉
蒲生賢秀の三男(嫡男)として生まれ、キリシタン大名で洗礼名はレオン(レオ)である。
蒲生氏郷は織田信長が烏帽子親するほど氏郷を見込んでいました。
蒲生氏郷の人物像紹介
厳格な性格
氏郷が可愛がっていた福満次郎兵衛の馬の沓が外れ、それを直そうと隊列を外れた。氏郷はそれを軍紀違反として斬るように命令し斬らせた。
一万石で召し抱えた橋本惣兵衛という家臣が酒宴の席で「某は子供を多く持っている。十万石くれるとあらば、一人ぐらい川に捨てても構わん」と豪語した、それを耳にした氏郷は激怒し、1000石に減らしたそうです。
家臣との付き合い
氏郷の自宅で月一の会議を行っていた、その会議での決まりごとは「怨ます、怒らず」が決まり事で自由な発言が許されていた。また、会議が終了した後、氏郷自らお風呂を沸かし料理を振舞ったそうです。
新参者の部下に「銀の鯰尾の兜をかぶり先陣するものがあれば、そいつに負けぬように働け」と激励した、その銀の鯰尾の兜をかぶっていた人物こそ蒲生氏郷であった。
松倉権助という家臣がいたが、この家臣はとても臆病で周囲の者に馬鹿にされていた。氏郷は「どんな人間でも使い道がある」といい、その家臣をいきなり一部隊の隊長に任命した。周囲の者は「そんな臆病者など隊長の役など務まらない」と言っていたが、合戦が始まると大手柄をたてた。氏郷は「見ろ、どんな人間でも責任をもたせればその責務を果たす。噂や評判だけでその人間を決めつけてはいけない。」と言ったそうだ。
奇抜な形の兜
蒲生氏郷の兜の奇抜な形には驚きます。因みに、兜の名前は「鯰尾兜」と言います。
蒲生氏郷の名言・格言の紹介
【たとえ、大領であっても、奥羽のような田舎であっては本望を遂げる事はできぬ。小身であっても都に近ければこそ天下をうかがえることができるのだ。】
【春夏秋冬どれか一つにかたよらず、家風を正すことが主将の器というべきであろう。】
【指揮者・武将だからといって後方ににいて家臣に命令を出すだけでは駄目である。自分が真っ先に敵陣に入って安全だからわしについて来いと言う。そうすれば、家臣はついて来るものだ。】
【家来に対しては、知行と情の2つが必要。この2つが家来をやる気にさせる両輪ある。】
蒲生氏郷のまとめ
本日の登場した戦国武将は蒲生氏郷です。氏郷はあの織田信長も認めた程の実力者であった人物で戦国時代では考えられない程の家臣(部下)思いには逸話や名言・格言で分かります。もし、氏郷が長生きをしていれば必ず徳川家康と天下を取り合ったのではと思います。残念な事に、40歳という若さで亡くなってしまいました。本当に残念な事ですが、もしかしたら氏郷を病死と見せかけて・・・・。
氏郷の家臣を思う気持ちが今の経営者にはとても大切なメッセージではないかと思います。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
次回、お楽しみに!!