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島津義弘の紹介
生誕:天文4年7月23日(1535年7月23日)/死没:元和5年7月21日(1619年7月21日)
薩摩国の守護大名
豊臣秀吉の九州征伐で秀吉に降伏しました。
主君:島津義弘⇒豊臣秀吉⇒秀頼
島津義弘の名言・格言
良いことの五つは真似しやすく、悪いことの一つはなかなかやめられない。
昔の悪いことを知ると、自然と良いことが出来る。
悪人こそわが師である。
表に桜を植えたのは参詣する人が花を楽しみ、心が豊かになるだろうからだ。裏に栗を植えたのは、栗の実は何かあった時には
食料になり、枝は薪にも使うことができる、桜は花を楽しませ、栗は実を取る。
上よりまず礼儀を正し、家臣はその恩恵をかたじけなく感じて我が行いを恥じるようになりたいものだ。
肝要なところに気を配れ、どうでもよいところを気をつけるものではない。
島津義弘の人物像は?
島津義弘は豊臣秀吉はもちろんのこと、徳川家康にも恐れられていた武将で島津家の弱体化を図ったが島津家の結束が強く弱体化は出来なかった。
また、情け深い義弘は朝鮮の役後、敵味方関係なく高野山に供養塔を建設しました。
義弘は愛妻家だったことが、妻に送った手紙の内容から伺えられる、その内容は「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子どもたちの事を思えばこそだ、もし、自分が死んでしまったら子どもたちはどうなるのだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、お前には強く生きて欲しい。一万部のお経を詠んでくれるより嬉しい。」愛妻家ですね。
義弘が老いて、一人で立ち歩き、食事を取ることさえも不可能になった時、家臣が「殿、戦でございます。」言い、城外で兵の鬨の声が聞こえると義弘の目は大きく開き、一人で普段では考えられない量の食事を平らげたという。
関ヶ原の戦いでは、敵中突破をした後、生き残った家臣らに薩摩に帰還を勧め、義弘は大坂で人質になっている妻子の救出に向かった。
島津義弘のまとめ
島津義弘の人物像や名言・格言から分かることは、家臣や家族など大切にする武将であったと思います。
豊臣秀吉や徳川家康という天下人の2人にも恐れられていた事で義弘の凄さが分かってきます。
若い頃の義弘は血気盛んで、弘治3年の蒲生城攻めでは一騎討ちを制しながら鎧の5ケ所に矢を受け重傷を負いながら勇戦を見せたそうです。
そんな、勇猛な義弘の行動だから「鬼島津」と言われるようになったのでしょう。
しかし、以外にも義弘は愛妻家だったのです、今で言うなら仕事が出来て部下思いに家庭も大切にするお父さんなんです。
タイミングが合っていたら、島津義弘が天下人と言われたかもしれません。
今回は島津義弘のお話でした、最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
次回、お楽しみに!!
上杉謙信の紹介
上杉謙信(うえすぎ けんしん)・上杉輝虎(うえすぎ てるとら)
身長156㎝
血液型:AB型
生誕:享禄3年1月21日(1530年2月18日)/死没:天正6年3月13日(1578月4月19日)
越後の統一を果たし、49年の生涯で武田信玄、北条氏康、織田信長、蘆名盛氏など幾つもの合戦をし、中でも5回戦った武田信玄との川中島の戦いは特に有名な話です。
上杉謙信は毘沙門天の熱烈な信仰家で軍旗は「毘」と「龍」を掲げていました。
軍旗にはそれぞれ意味があります。
「毘」は毘沙門天を表し、「龍」は不動明王を表します。
毘沙門天(多聞天)
仏法を守る四天王の1人。
四天王の紹介
「広目天」~西の方角を守る。
「持国天」~東の方角を守る。
「増長天」~南の方角を守る。
「毘沙門天」~北の方角を守る。
上杉謙信と川中島の戦を5回交えた武田信玄とは?
武田信玄(たけだ しんげん)
上杉謙信の名言・格言
我ある故に毘沙門あり
死なんと戦えば生き 生きんと戦えば必ず死するものなり
人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり
自分は国を取るのではなく、後の勝ちも考えない。
さしあたっての一戦に勝つことだけを心掛けている。
人の上に立つ者の一言は、深き配慮を伴っていなければならない。
軽率な発言はもってのほかである。
【上杉家家訓十六か条】
心に気にかかる物のない時は、心は広く体も安らかである。
心にわがままのない時は、相手への愛と敬いの心を失わない。
心に欲のない時は、道理ある正しい道を進む。
心に私がない時は、疑うことをしない。
心に驕りがない時は、人を尊ぶ。
心に誤りがない時は、人を畏れない。
心に邪見がない時は、人を育てる。
心に貧りがない時は、人に諂うことがない。
心に怒りのない時は、言葉は和やかである。
心に堪忍がある時は、物事を調えられる。
心に曇りがない時は、心は静かである。
心に勇がある時は、悔やむことがない。
心が賤しくない時は、無理な願いをしない。
心に親への孝行心がある時は、主への忠節も厚い。
心に自慢のない時は、人の善を知り。
心に迷いのない時は、人を咎めない。
上杉謙信のまとめ
上杉謙信は戦国武将でも大変人気がある武将の1人です。特に武田信玄との川中島の戦いは幾度もドラマ化されました。
一説には上杉謙信は女性ではないかと言われており、しかし、仮に女性としても大変魅力的な武将です。
そして、上杉家家訓十六か条でも挙げられているもので、「なるほど」現代でも守りたいと思った家訓がありました。
その家訓とは「心に欲がない時は、道理ある道を進む」、「心に驕りがない時は、人を尊ぶ」は守っていきたい家訓ではないでしょうか?
最後まで読んで頂いてありがとうございます。
今回は上杉謙信のお話でした。
次回、お楽しみに!!
前田利家と言えば槍の名手です
若い頃は傾奇者と言われ、その傾奇ぶりに驚かされてしまいます。
特に織田信長の関係でその傾奇ぶりを発揮しました。
今回のお話は前田利家についてです。
前田利家の紹介
生誕:天文7年12月25日(1539年1月15日)/死没:慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)
主君:織田信長→秀信→豊臣秀吉→秀頼
尾張国海東部荒子村(現在 名古屋市中川区荒子)
前田利家に影響を与えた最も関係が深い人物として、柴田勝家、織田信長、豊臣秀吉の3人がいます。
柴田勝家
織田信長
豊臣秀吉
前田利春の四男として産まれ、織田信長に仕えるが本能寺の変で
織田信長が明智光秀に討たれると柴田勝家に仕えるが、
その後羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え豊臣家の繁栄に尽力を尽くす。
前田利家は槍の名手で知られ、利家の別名で「槍の又左衛門」「槍の又左」と言われ恐れられていました。
織田信長の異母弟と諍いを起こしてしまい、成敗は避けられなかったが
柴田勝家や森可成らの織田信長へ取り成しにより、出仕停止処分の減罰になり浪人生活をおくる。
しかし、出仕停止処分にも関わらず、信長に無断で出陣するなどの行動をした。
前田利家の容姿と言えば、その当時の男性の平均身長が157㎝でしたが
利家の身長は182㎝の体格をしていたそうです。
利家の使用していた槍は三間半柄(6m3㎝)の長さの槍を持っていたそうです。
前田利家の名言・格言紹介
人間は不遇になった時、友情のなんたるかを知るものだ。
戦場に出ては、我が思うようにして、人の言うことを聞き入れぬが良し
武門とは信義の番兵であり、人の生涯は心に富を備える為にある。
ともかくお金を持てば、人も世の中も恐ろしく思わぬものだ、逆に一文無しになれば
世の中も恐ろしいものだ。
前田利家のまとめ
戦国時代、傾奇者と言われていた前田利家ですが、その行動で驚いた事は織田信長に無断で出陣をした事でしょうか!
あの時代、やってはいけない行動ですよね?一歩間違えれば、命取りになってしまいます。
しかし、柴田勝家というサポートしてくれた人物が登場します。
前田利家の名言・格言で「人間は不遇になった時、友情のなんたるかをしるものだ。」
がありますが自分に絶体絶命のピンチが来た時、どれだけの人が自分を助けてくれるのだろう・・・。
まさに、織田信長と前田利家のぎくしゃくした関係を修復してくたからでしょうか。
また、「ともかくお金を持てば、人も世の中も恐ろしく思わぬものだ、逆に一文無しになれば世の中も恐ろしいものだ。」
お金があれば、それなりに人も寄ってきますし、生活も楽ですがお金が無い者は世の中の人から馬鹿にされます。
前田利家は人生のどん底を味わったからこそ、この様な名言が生まれたのではないでしょうか?
最後まで読んで頂きありがとうございます。
今回は前田利家のお話しでした。
次回、お楽しみに!!
馬場信春は武田家に仕えた戦国武将です。
戦国時代、70回以上出陣し長篠の戦まで無傷という武将です。
馬場信春の名言から現在の成功哲学を考えてみましょう。
今回のお話は馬場信春についてお話します。
馬場信春の紹介
生誕:永正11年(1514年)または永年12年(1515年)の二つの説があります。
死没:天正3年5月21日(1575年6月29日)
馬場信春は武田信虎、武田信玄と仕えましたが
信玄が計画した信虎追放計画に参加したとも言われています。
しかし、信玄の初陣など海ノ口城攻めに参加し大きな功績を挙げました。
馬場信春の名言紹介
敵より味方が勇んでいるときは、それぞれ先を争えばよい。
味方が臆しているときは、自分一人が進んできっかけをつくる。
味方の中で手本になる人にふだんから親しみ
そのひとより働け。
敵の兜の吹き返しがうつむいていて、
背中の指物が動揺していないのならば
それは、剛敵であるから避け、弱い敵に向かってかかれ。
貧欲な武将として後世の物笑いになる。
武士は剛勇だけではいけない。臆病で味付けする必要がある。
馬場信春が登場したテレビドラマ紹介
1960年~NHK大河ドラマ:天と地
1986年~おんな風林火山
1988年~武田信玄
1991年~武田信玄
1992年~風林火山
2007年~風林火山
2008年~天と地
武田家との関係が深い馬場信春は武田家を題材にしたドラマに多く出てくる。
信春は武田家の四天王の一人と数えられる。
武田四天王は誰か?
武田四天王の紹介
馬場信春
内藤昌豊
山県昌景
高坂昌信
馬場信春のまとめ
馬場信春は戦国時代という時代に武田家に仕える事、40年の間に70回を超える戦に参加したが長篠の戦いまで無傷だったそうです。
名言から分る人物像は馬場信春は周囲に気を使っている人物であると言えます。
「敵より味方が勇んでいるときは、それぞれ先を争えばよい、味方が臆していれば自分一人が
進んできっかけをつくる」という名言から周囲に気を配りかムードメーカーの役割を果たしています。
この考え方は会社組織で必要な事ですし、生きていく上で周囲に気を配る事が何事も成功するノウハウと思います。
また、馬場信春の面白いエピソードか生まれた名言があります。
「貧欲な武将として後世の物笑いになる」という名言は永禄11年(1568年)駿河国侵攻で
今川氏が収集した財宝が消失するのを惜しんだ信玄が運び出すように命じた事を知った信春は
現場に駆けつけ運び出している財宝を火の中に投げ込んだ時に生まれた名言だそうです。
その時の信玄の言葉として「さすが7歳年上だけある」と信春の器量に敬意をはらったそうです。
今回は馬場信春のお話でしたが、いかがでしたか?
次回お楽しみに・・・。